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東岡崎 居酒屋 明月  扱いやすいオーナー

名前:藤原 修司

 

修ちゃイェイ上半身

 

[山椒は小粒でもピリリと辛い]

幼少期は父の当時の仕事関係(パチンコ屋の釘師・経営)で各地を転々とする。

5歳から7歳までの2年間、岡崎市美合町で過ごす。

当時流行っていた「ろばた焼き」を父が開業し、市内でも有数の人気店に。

しかし家主が自分で開業したくなり、契約更新できず一旦廃業に。候補地を探す。

僕自身は小学二年生にも関わらず、親不在の家には帰らず、子分(皆同級生だが従業員の子供やお客さんの子供)を引き連れて深夜徘徊、窃盗、喫煙などを繰り返す。

当然学区で問題になり、警察沙汰に。
父はろばた焼き移転を諦め、環境を変えることも考慮し、市内中心部へ引越す。

父親の仕事は元の釘師へ。

その後すぐ両親は離婚。
年子の姉、まだ3歳の4つ下の弟と共に父親に引き取られる。

環境が変わり、無難な義務教育を過ごすも、物足りなさは拭いきれず悶々と。

高校1年でバンド活動開始。

高校2年で役者になろうと、突如志す。リバー・フェニックスになろうと誓う。

名古屋の俳優事務所オーディション合格。

が、父親と激しい口論の末、契約書を自ら破る。(親父の言い分は、お前は見世物じゃねー!)

18歳を過ぎれば親の承諾書がいらない。あと一年待てば!と勝算があった。

しかし、周りの大人達の説得交渉に敗れ、高校卒業と同時に滋賀県内のホテルへ。

[夢は寝てから見ろ]

顧客管理部門洋食調理課へ配属。

若気の至り。
あまりの勝手さ加減に、ホテル始まって以来の馬鹿と言われる。

当時の彼女(職場恋愛)に言い寄ってくる男が多く、負けたくはない!と突然仕事に奮起する。(男の悲しいサガ)

メモ魔になり、昼間聞いたフランス語の単語はすべてメモ。帰宅後は辞書と睨めっこ。

寮に帰ると缶ビールを持って先輩の部屋へ。次の日の段取りを聞き出す。

その後ホテルに忍び込み、上司の本棚からレシピを写す日々。

すぐにホテル始まって以来の快挙を量産し始める。

同期を指示する(朝食バイキングなど)立場にもなり、当然仕事も楽しくなる。

でも不思議なもので、彼女にはキレイにフラれる!(こんなもんだね!)

疲れ果てて部屋に戻ると友達からの留守電が。リバー・フェニックス死去・・・。

翌日、上司との激しい喧嘩後(理由は些細なこと)、飛び出すように上京(世田谷区)。今度こそリバー・フェニックスになる!

友達との共同生活をしながら、

いくつかの事務所オーディション落選。

数々のドラマ、映画のオーディション落選。

所持金(当時同居していた友達と部屋中かき集めて)380円。

大学で埼玉にいた姉に連絡。所持金(公衆電話代を差し引き)320円。

金を借りたらまた戻ってくる。友達にそう伝えて所持金320円を握りしめ、いざ姉と待ち合わせの池袋へ!(池袋にて何だかんだと所持金0円)

しかし待ち合わせ場所が分からず迷子。

1時間ほどモーレツに池袋徘徊。

奇跡的に姉の友人に発見される。(あんたに似た顔の子がいるよ!)

予想通り、資金調達交渉は見事失敗!

岡崎市に強制送還。

岡崎に帰還後は短期間に様々な職場を転々。

言えないような業種も多数。

[働けど、働けど、我が暮らし楽しくなる]

父親の勤めていたパチンコ店が廃業となり、父親と居酒屋開業を目指す。

1995年2月-愛知県岡崎市明大寺本町4丁目26に『居酒屋 明月』を開店。

当時の客単価は1000円前後。

来店人数一日に10人以下。

鳴かず飛ばずの日々を過ごす。(以後十年間給料なしの暗黒の日々。でも今思えばまるで丁稚奉公のような無給の10年間は良い下積みになった。お金の重さがわかるようになった。)

余りの暇さに、父との大喧嘩の毎日。親子ゲンカがちょっとした名物に。(親父の経営にいつも不満爆発!)

何とかしようと自分だけでランチ営業や深夜営業、何でもするようになる。(それなりの結果を出すが近所の苦情や親父との喧嘩で挫折)

2001年-現在の家内と知り合う。あまりの貧困状態に、結婚も躊躇する日々はその後4年に登る。

2004年-いつまでも煮え切らない僕に彼女(現家内)ブチギレる!店のこともお父さんのことも全部私が支える!

女性にここまで言わせてはいけない。深い反省と燃えるような想いにスイッチが入り宣言。

「自分の中にあるすべての才能を金に変えてやる!必ず皆が羨むような生活をさせてやる!」

今まで以上に猛勉強開始!

[人生は山あり谷あり。でも谷間には綺麗な花が咲いている]

2005年-父親の入院を機にクーデター敢行。
親父不在の間に、一切のお金の流れを掌握。

焼き鳥のタレや客層、経営方針も一変させる。
案の定、みるみるジリ貧状態に。(この頃は本当に辛かった。小資金ながら震える思いで小さな自己投資を繰り返えした)

同年、焼き鳥から豚の串、「やきとん」へと主力の変更を試みる。

親父も無事に退院。(退院した親父は怒り狂ってたな~。しばらく怒りが収まらなかった。当然だけど)

結婚し、家内も専属で加わったことで新体制としてスタート。

結婚生活のスタートは情けないことに、指輪なし、式なし、新婚旅行もなし!

「何も無いことがふたりの指輪だ!!」とうそぶく!(今だに指輪なし!)

二人で市役所に婚姻届を提出し、そのあとすぐ店の仕込み!

しかし、周りの応援や努力の甲斐も有り、業績を伸ばし始め、知る人ぞ知る名店として噂されるようになる。

2007年-豚もつ鍋をメニューに加える。
当初は資金がないため冷蔵庫増やすのも安い店を探し、ドキドキブルブルで数万円を支払うほど。

しかしながら豚もつ鍋はたちまち人気を博し、主力商品に。その勢いのまま連日賑わう繁盛店へ。

ありがたいことに、父も文句が言えない状態に大繁盛。

クーデター、ここに勝利宣言!

2009年7月-店舗の賃貸契約終了により同市明大寺本町4丁目27へ移転。屋号を正式に『東岡崎 明月』に。

2009年9月-『東岡崎 明月』開店。主力商品を高々と豚もつ鍋に。

開店後まもない10月~11月の数日入院。首にできた腫瘍切除。成功!

新店舗の売上はうなぎ登りで有頂天!

2010年春-家内の懐妊が判明!かなり気合が入る!が、

2010年5月-売上が急転直下!

豚もつ鍋を主力としたために気温の上昇とともに、売上は綺麗に下降!

もがく日々。ぎりぎりの状態で冬を迎える。

2010年11月-長女誕生!売上は下降線。が、

気温の下降とともに、売上上昇!(でもそれも長くは続かない!)

2011年4月-東日本大震災後の影響と気温の上昇とともに、見たことないくらいの売上直下!

極貧状態始まる。

2011年6月-追い打ちをかけるように親父の癌発覚。緊急入院。3ヶ月後あっけなく死去。(この頃は経済的にも身体的にも本当にキツかった。一人になるとよく泣いたな~)

新店舗の借金数千万。従業員、乳飲み子を抱え、死んでしまいたい毎日。高いところに登ると飛び降りたくなる衝動頻発!

店中のお金をかき集め、従業員の給料を作り、借金を返済し、残ったのは50十枚ほどの千円札。
千円札で分厚い給料袋を家内に渡すと破顔するほどの笑顔。
「こんなに頂いていいの?!」
しかし中身を見て号泣。
「お疲れ様です。ありがとうございます。」

本当に辛かったな~。
情けなかったな~。
苦しかったな~。

でも、めげない!アホだから!

気温の影響をなくすため、人間力アップ店舗力アップを図る。メニュー構成と経営方針の転換。

もがき苦しんでいる時、衝撃的な言葉に出会う。

「経営者の人格以上にモノは売れない」

深く反省するとともに、思い上がった気持ちを粉砕。

藤原修司、振り出しに戻る。

2012年-勉強と数々の助言。お客様からの応援。従業員みんなの努力、たくさんの出会いの中で、少しずつ売上に反映されてくる。

同年夏。初めての負けない夏を過ごす。今一度、お客様や仲間たちへの感謝を取り戻し、確信を得る。

“商売とはお客様とのご縁を深くして行く事”だということに気がつく。ご来店くださったお客様が全てです!

2013年-たくさんのお客様。頑張り屋で楽しい仲間達。家族に支えられ、元気に張り切って現在に至る。

好きな言葉
『人は己に克をもって成り、自らを愛するをもって敗るる』

『清く明らかなるものは陽として上にあり、これを勝ちと名づく』

『善因は善果に通ず』

『万物は相対的である』

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